前回に続き、Number(文藝春秋)松原孝臣様の記事を転載させていただきます。
↓ ここから後編 ↓
女子ジャンプのためにいいジャンプを。
「4年前に悔しい思いをして、そこから頑張ってきたのを見てきたので、とてもうれしかったです」
高梨に駆け寄った場面を尋ねられ、伊藤はそう言った。
そこには、ともにジャンプの女子の世界を歩んできた同志としての連帯感もあったのではなかったか。
伊藤は以前、何度も語っていた。
「先輩たちが大変だったのはよく知っていますし、そういう先輩方がいての自分だと思うので、もっと女子ジャンプのためにいいジャンプを飛びたいし、若い選手の力にもなりたいです」
五輪種目前に強いられた数々の苦労。
ジャンプ女子は長年、五輪種目ではなかったこともあって、選手は苦労を強いられてきた。
「女子にジャンプができるのか」
「子供が産めなくなるからやめた方がよい」
そんな言葉も飛び交った時期もあった。
認知度が低いから支援も薄い。遠征の多い競技ゆえに就職も難しい。居酒屋のアルバイトで生計を立て、札幌で行われる国際大会に2時間の睡眠時間で出る選手もいた。数十の会社にアプローチし、支援先を見つけられず競技生活の継続に悩む日本代表選手もいた。
ソチ五輪の1年前には長年指導にあたってきた日本代表チーフコーチが、支援先の企業を失ったことで生計を立てることを優先せざるを得なくなり、辞任する事態もあった。
苦しんできた先輩の話を聞いたり、時には目の当たりにしてきた。伊藤がジャンプに励んできた少年団もまた、運営は楽ではなかった。だから何度も、「女子ジャンプのために」とこれまで語ってきた。
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「先輩たちがいて、自分がいます」
高梨もそうした歴史や競技環境を知る1人であることに変わりはない。
「先輩たちがいて、自分がいます」
「感謝のためにも、もっと知ってもらうためにも、いいジャンプを飛びたいと思っています」
ことあるごとに語ってきた。
ソチで苦しい思いをした2人は、互いに切磋琢磨し、刺激しあって今日にたどり着いた。その姿を身近に見てきたから伊藤は祝福したし、抱きしめられた高梨は素直に感情を露わにした。
同時に、先輩たちの築いた歴史を知り、女子ジャンプの地位向上をと思ってきた同志だからこそ通じ合うこともあった。
それは伊藤だけではない。同じくジャンプ女子日本代表の岩渕香里、勢藤優花もまた、高梨の銅メダルを心から喜んだ。それは同志という意識があればこそだっただろう。
12歳にして率先して場を整えようと。
こうした姿を見て思い出したことがある。伊藤が小学6年生、12歳のときの取材でのことだ。
「こんなに遠くまで、寒いのにありがとうございます」
言葉だけでなく、取材するこちら側が暖かい環境でいられるように、率先して場を整えようとしてくれた。わずか12歳の彼女の気遣いは、今なお筆者の心に刻まれている。そうした周囲を思いやる人柄は小学生の頃から変わらない。当時の印象と平昌で今回見た光景がふとだぶって見えた。
伊藤は望む結果を手にすることができなかったし、そういう意味では勝者ではなかったかもしれない。
それでも、高梨を素直に祝福した彼女の姿もまた称えられるべきだ。それはまさにオリンピックにふさわしいトップアスリートたる振る舞いだった。
そう思わずにはいられなかったし、今大会の忘れがたい光景でもあった。
↑ 後編ここまで ↑
さて、受験結果で満足いく結果が得られなかった皆様!
伊藤選手はソチオリンピックで思うような結果が得られず、平昌オリンピックでも望んだ結果になりませんでした。
それでも取り乱さず、不運を恨まず、腐ったりしませんでした。
心の中で号泣しながらも、その無念を自分の胸にしまい、ライバルを祝福するために駆けだしました。
皆様はどうしますか?
どうすればよいか分からない時は、ブレイキングコーチに声を掛けてください。
どんな状況でも応援します。
一緒に未来へ駆けだしましょう!
※画像:ソチ五輪で失意に沈む高梨選手を抱きしめて慰める伊藤選手
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