前回(日本では優等生タイプを妙に貶めたがる傾向があり、マジメ=ガリ勉でかっこ悪い・恥ずかしいと認識されている)の続きです。
↓ ここから ↓
ただ、こういう傾向は今に始まったものではない。
たとえば、アニメで瀕死の敵が助けを求めているシーンがあるとしよう。だれかが『罠かもしれないから様子を見よう』と言う。
それに対し『それじゃ間に合わない』と助けるキャラがいる。
前者の発言はだいたい優等生のリーダータイプで、後者はヤンキータイプと相場が決まっている。
なんだかよくわからないが、人としての思いやりがあるキャラというのは、優等生ではなくヤンキーキャラが多い。
小説やアニメの世界では、優等生=他人を注意する面倒な性格、知識をひけらかす鼻持ちならないインテリ野郎、といったキャラ設定される。
そういった鼻持ちならない優等生の鼻を明かすのは決まって劣等生で、最終的に落ちこぼれがのし上っていくストーリーが好まれる。
それ自体が悪いわけではないが、ちょっと劣等生びいきがすぎるんじゃないだろうか。
(略)
勉強ができる人を不当に評価しない風潮には、どうしても違和感がある。
学歴だけがすべてではないにせよ、ギターがうまい、オセロが強い、足が速いといった強みとおなじように、勉強ができる、博識であるということだって十分評価されるべきだろう」
もちろん「ワル」に憧れ、「優等生」をからかう傾向は日本独自のものではない。
しかし、日本の場合、その背景には教育制度の問題もあるのではないか、という仮説を雨宮氏は立てている。
日本の教育は、「できない子」に優しすぎる。そこに原因があるのではないか、というのである。
「不登校でも小中学校は自動的に卒業できるし、高校は義務教育ではないにもかかわらず、宿題をせずテストが赤点ばかりのクラスメートも進級できていた。
大学だって、留年しそうな先輩が教授に泣きついて補助レポートという名の走り書きで単位をもらったり、救済処置として教授がテストに『この講義の感想を書け』なんて問題を設けていたりした。
日本の学校は『できない子』に合わせ、教師は落ちこぼれが出ないように腐心する。その結果、最低限の教養は学校で、偏差値アップは塾で、という棲み分けになってしまったのかもしれない」
このような手厚さは、決して世界標準ではない。
ドイツでは、日本でいう小学生の時から成績によって進学先や将来がかなりシビアに決まってしまう。ドイツの教育制度では、子どもは4年制の小学校に通ったのちに、主に3つのコースを選択することとなる。「ギムナジウム」「実科学校」「基幹学校」の3つである。
<次回に続く>
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。